2006年10月09日 Mon

月の話【フィクション】

闇の上に月が浮かび、夜の底に淡い光を沈殿させている。


その光の沈殿のなかを歩きながら、僕は顔をあげて月を眺めた。澄んだ夜空から僕を見つめる月の光は、冷ややかなようでもあり、しかしやさしく僕を包み込むようでもある。


こんな秋の夜、僕は必ずある既視感におそわれる。どんなに自分の記憶を詳細に調べてみてもありえないはずの経験を、すなわち、人に愛されるという経験を、僕は思い出すのだ。僕は月に問うてみた。この、僕の記憶ではありえないはずの記憶はいったい何なのか、と。すると、月が答えた。

「それはもう一人のお前の経験だ」

と。そうして僕は、彼女に当然の疑問を投げ返す。

「もう一人の自分とは誰なのか」

と。また彼女が答える。

「それはお前の双子の兄の記憶である」

と。さらに続けて彼女が語る。

「双子の兄の記憶が、お前の記憶に混入しているのだ」

と。そうして彼女は地上にぼんやりとした光を降らせながら、だいたい次のように物語った。



日本のある地方都市に、彼、すなわち僕の双子の兄は生活している。体格、顔立ち、声、指の長さ、その他ほとんどあらゆる身体的特徴は僕と酷似している。だが、彼と僕とは決定的に異なる点がひとつあった。それは、彼が人を愛することのできない男だということ。


神は、僕と兄の魂を母の胎内に吹き込むときに、手違いを犯したのだった。僕に本来与えるべきであった「人に愛される能力」を兄に与えてしまい、逆に、兄に与えるべきであった「人を愛する能力」を僕の方に与えてしまったのだ。そうして、僕は人を愛することはできても、人に愛されることのできない人間となり、兄の方は人に愛されることはあっても、人を愛することのできない人間になってしまった。


彼は、すなわち兄は、ある晩、職場の女性に誘われ食事にゆくことになった。週末を控えたその日、彼は他にこれといった用事もないので付き合うことにした。


仕事が終わり、彼は彼女と連れ立ってオフィスを出る。その二人の背中に嫉妬のまなざしを向ける女性がそのオフィスのなかだけでも3人はいるのだが、彼はそのことに気づく由もない。駐車場までくると、彼は何の打算もなく彼女のために助手席のドアを開けた。


めまぐるしく過ぎ去ってゆくネオンの光を顔に反射させて、彼はまっすぐ前を見て運転している。彼女はときおり彼の顔をさりげなく覗き込んでみる。彼はそれにも気づかない。ただ、彼女の方からふられる何気ない会話に答えるだけであった。ときおり乾いた声で笑ったり、立て続けに話をすることもあったのだが、どこか心の底は違う方を向いている、という印象がある。彼はそんな倦怠感を発しいていた。そうして、多くの女性がそれに魅かれるのであった。


イタリアンレストランの店内で、彼女がパスタをフォークに巻きながら、

「鈴木さんって、おつきあいしている女性はいるんですか?」

と彼に質問した。鈴木とは、彼の名前である。

「いや、僕は女の人とつきあったことがないんですよ」
「え!ほんとうですか!」

一瞬、店内の客が二人の方を振り向いた。それほど彼女の驚きの声は大きかった。

「女の子たちで、鈴木さんのファン、多いんですよ」
「まさか、冗談でしょ」

乾いた声で笑う彼。彼女の言葉を真に受けていない。嬉しい、という感情もなく、かといって彼女の言葉を疑うでもなく、彼にとってそれは興味の対象から外れたものでしかなかった。つまりは、どうでもよかった。


彼はそれまでの人生で無数の異性に愛されてきた。小学校、中学校、高校、大学、そうして職場でも。それにも関わらず、彼は一度として彼女たちの気持ちに気づいたことがなかった。もちろん、女性の方から告白されたことも一度や二度ではない。しかしその度に彼はなるべく相手を傷つけない言葉を用いて断ってきた。


食事を終え、二人はふたたび車に乗り込んだ。近くの駅まででいいと遠慮する彼女に、彼は自宅まで送ってゆくと言った。空にはぽっかりと月が浮かび、フロントガラス越しに二人を照らしている。

「鈴木さん、どうして彼女つくらないんですか?こんなに女の子にモテるのに。何か嫌な思い出でもあるんですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどね」

彼の顔が曇る。こういう話は苦手なのだ。なぜ恋人をつくらないのかと問われると途端に返す言葉につまってしまう。彼には、人を愛する、ということが理解できないのだった。もちろん、助手席に座っている彼女の気持ちにも気づけるはずがなかった。

「あ、すみません。変なこと訊いちゃって」

そうして仕事の話や上司の愛人のうわさ話をしてお茶を濁しているあいだに、車は彼女のマンションの前に到着した。

「じゃ、また月曜日に会社で」
「はい」

しかし彼女はシートベルトを外したあと、助手席に座ったまま動こうとしなかった。

「どうしたの?気分でもわるい?」

彼は彼女の体調を気遣って、心配そうな顔で彼女に問う。すると、彼女は彼の顔をまっすぐに見つめて言った。

「あたし、鈴木さんのことが好きなんです」

その瞬間、彼の心に暗い影が落ちた。むかしから何度も繰り返された、不幸な出来事。それがまたしても彼を襲ったのだ。


彼は思う。どうしてこの女性は自分などに特別の好意を寄せるのか、と。そうして、これも幾度となく行われたことだが、彼は即座に、しかし最大限彼女を傷つけないような拒絶の言葉を探した。けれど、彼女は彼の言葉を待つまでもなく、彼の表情から拒絶を感じ取り、蝶のようにひらりと車から出て駆けていってしまった。


彼には、不可解な罪悪感だけが残された。自分は、彼女の愛に応えることができない。いや、誰からの愛にも応えることができない。そうして、人に愛される度に人を傷つけなければならない。これは、自分が悪いのであろうか?自分の罪なのであろうか?彼はハンドルに額を押し付けて、終わりのない自問自答に苦しんだ。そうして、もし自分が人を愛することができたなら、これほど人を傷つけることなく、またこのような罪悪感に苛まれることもなかったのに、と神を呪った。



これが、月が僕に語った双子の兄の話である。

「お前は人に愛されることがない変わりに、この兄の記憶が侵入してきて、それを自らの記憶と混同しているのだ」

月は語る。そうして、僕はとうぜんの疑問を彼女に投げ返した。

「僕はまだ21だ。大学を卒業した双子の兄がいるというのは不条理ではないか?」

と。月は答えた。

「あ、すみません。人違いでした」

と。おっちょこちょいな月である。
posted by グレエ at 23:59 | Comment(3) | TrackBack(0) | edit


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この記事へのコメント
最後、人違いオチw
せっかく感情移入してたのに…。
なんか、いい文章だね…
Posted by なも〜 at 2006年10月10日 22:38
始めまして〜、うろついてたら見つけました♪
落ちがいいです!つぼです(笑
Posted by at 2006年10月11日 22:17
>なも〜さん
ありがとうございます。実はこの文章に関してはオチはあまり問題ではなく、本文のようなものを書きたかった、というだけでした。

>柳さん
めっかっちゃった!
本文の内容は予め決まっていたのですが、なかなかオチがつけられず悩みました。なのでそう言ってもらえると非常に嬉しいです。
Posted by グレエ at 2006年10月11日 23:54
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